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2018/05/14 宮田村へ行く用事が有り、分杭峠へ行って来た。
2018/05/25 小林さんgoogole mapへ口コミ投稿をしている事を教わった。
分杭峠検索 からpopai21(102件のレビュー 208枚の写真)
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よみがえれ秋葉古道TOP|雑記録|
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よみがえれ秋葉古道
「ささゆり」の掲載にあたって
塩の道は、火防の神・秋葉信仰の道と重なり、北の水の神・諏訪信仰の道に繋がり、昔から全国から多くの信者を集めてきた。私達有志で組織する「塩の道踏査研究会」のメンバーも平成7年から太平洋側相良から日本海側糸魚川までを、また逆に糸魚川から相良までの塩の道を再三再四にわたり歩いてきました。
歩いていると、森町の大久保(戦国夢街道)では、「昔は夕方になると三味線の音が聞こえてきた。」、「森の町から十五以上の瀬を越渡ってきた」、また、秋葉下社の奥「九里橋」近くに住むおばあちゃんは、「若い頃は、お茶を背負って水窪まで歩き飯田市までお茶を売りに行った」などなどの話が聞かれましたが、これらは、いずれも、この道が大変に賑わっていたことを伺わせるものです。
今回の掲載は、まさに、その秋葉信仰・塩の道の中心に住んでいたことのある赤堀文恵さんが還暦を迎えた時の「自分史」をお借りし掲載しました。
私達の年代は、舌が紫色になるまで桑の実を、ザリガニは釜一杯、薪割り時には、脇で木の中から出てくる幼虫を今か今かと待ちわび、出てきたと同時に焼いて食べたりもしました。当時は、誰でもが多かれ少なかれ、このような生活であった訳です。
今回は、興味本位ではなく、塩の道線上の当時の生活の貴重の資料になればと、二回に分けること無く、いっきに掲載しました。
炭や飲み水の運搬、スカート縫製などが印象に強く残りましたが、特に十枚のハガキのところでは、母の気持ち・小学生の幼い妹さんの気持ちを思うと、パソコンを打ちながら涙が止まりませんでした。
なお、妹さんは、現在、山梨県にお住まいで、家族にも恵まれ幸せに生活しているとのことで安心しました。ご家族のご多幸をお祈りします。
その後、一人で三十丁と思われる富士見茶屋跡をたずねたことは、言うに及びません。 (事務局・松浦記)
塩の道は、火防の神・秋葉信仰の道と重なり、北の水の神・諏訪信仰の道に繋がり、昔から全国から多くの信者を集めてきた。私達有志で組織する「塩の道踏査研究会」のメンバーも平成7年から太平洋側相良から日本海側糸魚川までを、また逆に糸魚川から相良までの塩の道を再三再四にわたり歩いてきました。
歩いていると、森町の大久保(戦国夢街道)では、「昔は夕方になると三味線の音が聞こえてきた。」、「森の町から十五以上の瀬を越渡ってきた」、また、秋葉下社の奥「九里橋」近くに住むおばあちゃんは、「若い頃は、お茶を背負って水窪まで歩き飯田市までお茶を売りに行った」などなどの話が聞かれましたが、これらは、いずれも、この道が大変に賑わっていたことを伺わせるものです。
今回の掲載は、まさに、その秋葉信仰・塩の道の中心に住んでいたことのある赤堀文恵さんが還暦を迎えた時の「自分史」をお借りし掲載しました。
私達の年代は、舌が紫色になるまで桑の実を、ザリガニは釜一杯、薪割り時には、脇で木の中から出てくる幼虫を今か今かと待ちわび、出てきたと同時に焼いて食べたりもしました。当時は、誰でもが多かれ少なかれ、このような生活であった訳です。
今回は、興味本位ではなく、塩の道線上の当時の生活の貴重の資料になればと、二回に分けること無く、いっきに掲載しました。
炭や飲み水の運搬、スカート縫製などが印象に強く残りましたが、特に十枚のハガキのところでは、母の気持ち・小学生の幼い妹さんの気持ちを思うと、パソコンを打ちながら涙が止まりませんでした。
なお、妹さんは、現在、山梨県にお住まいで、家族にも恵まれ幸せに生活しているとのことで安心しました。ご家族のご多幸をお祈りします。
その後、一人で三十丁と思われる富士見茶屋跡をたずねたことは、言うに及びません。 (事務局・松浦記)
注(静岡新聞記事pdfダンロード表示)
2018/09/30 より「秋葉街道口コミめぐり」ブログへ記録始める。
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